特別支援・福祉カタログ vol.4
31/580

 「私はダメな部分がいっぱいあるので、まだまだ伸びしろがあるんです」大きく顔をほころばせながら話す彼女の姿に天性の明るい気質を感じる。大西瞳選手はパラアスリート。2001年、義足ユーザーの陸上クラブ「ヘルス・エンジェルス(現スタートラインTokyo)」と出会ってから、片足大腿義足クラス(T63)のパイオニアとして走り続けてきた。 しかし義足のスプリンターとして第一人者であったものの、目標と定めたパラリンピックへの道は遠かった。北京2008パラリンピックは観客として仲間を応援し、「出場できたら辞めてもいい」とさえ思って臨んだロンドン2012パラリンピックは、あと一歩届かず「補欠選手」として競技場を訪れることになった。悔しさが彼女を突き動かし、さらに4年、トレーニングの日々を重ねた。記録は伸びていったが、リオデジャネイロ2016パラリンピック出場も易しくはなかった。100mで出場権獲得の目安となっていた17秒をなかなか切ることができず、ロンドンの屈辱が頭をよぎった。しかし「ここでタイムを出さなかったら終わり」と決死の覚悟で走った最後の選考会で16秒90をマーク、念願の舞台に立つ権利を手にした。 初めて日の丸をつけて出場したリオ2016パラリンピックは、100mで8位、走り幅跳びは当時のパーソナルベストを出して6位に入った。8年越しの目標であったトラックを走り、最高の跳躍をした彼女だったが、夢を叶えたことで、また新たな意欲が湧いてきた。 私は緊張するたちで、いつも大会ではスタートラインに立つまで気持ちが悪くてたまらないんです(笑)。でもパラリンピックは違いました。スタジアムに入った瞬間、わっと歓声が上がって「ちょー楽しい!」と感じました。ワクワクドキドキで、もう早く走りたいとうずうずしました。 結果、100m決勝はビリで、タイムにも満足できませんでした。興奮して楽しかったのですが、終わって冷静になってみるとやっぱり悔しさが込み上げてきました。北京2008パラリンピックのレースは観客席で見て、ロンドン2012パラリンピックも補欠として、またも観客席で見ました。本当に悔しくて頑張って続けようと心に決めて、ようやく出場できました。でも出てみると、またあの舞台に立ちたいってなるんです。パラリンピックは出られなくても悔しいのですが、出ても悔しい。だからもう一度、チャレンジしたいんです。 走り始めてから苦節15年(笑)、続けてきて本当に良かったと思いました。心臓が悪く青白い顔をした、始めた頃の私を知っている人は、まさかパラリンピックで走るようになるとは思わなかったでしょう。私自身も思っていませんでした。色々な人が色々なチャンスをくれて、ここまで続けることができました。義足の進歩もあって、まだまだ練習して記録を伸ばせる部分はたくさんあります。だからこれからも、少しずつでも挑戦していきたいと思っています。 大西選手は23歳の時に心筋炎を患い、1カ月ほど意識不明に陥った。経過が思わしくなく、壊死してしまった右足を大腿部で切断するしかなかった。心臓にはペースメーカーも埋め込まれた。当時はこれからの生活や義足に不安しかなく、その自分の状況を受け入れることもできなかったと言う。そんな気持ちが変わる契機となったのは「走る」ことだった。 それまでは信号が変わっても、バスに間に合わなくても、小走りすることさえありませんでした。走るって両足が浮くことなんです。初めて走ることができた時、「あっ、浮いた!」と感じました。周りの人にも「今浮いてたよね?」なんて聞くほど感激しました。それに風を切る喜びも感じました。今でもその感覚は忘れてはいません。 「走れるようになると、きれいに歩けるようになるよ」と義肢装具士さんに誘われたことが走るきっかけでした。当時はまだ普通っぽくきれいに歩きたかったし、きれいな足のような義足が欲しかった。でも、トラックを颯爽と走っている先輩たちを見て、ダサいと感じていた義足をカッコイイと思うようになりました。それから義足を隠さなくなり、今の自分も受け入れられるようになりました。行動的にもなって不安も少しずつ薄らいでいったと思います。 私は中学、高校でも陸上をしていましたが、その頃と今ではスポーツの意味が違います。今はより大事なものであって、あの頃よりももっと走ることが好きになっています。Challen

元のページ  ../index.html#31

このブックを見る